スポーツ「観戦道」

俺は体育会系連中の、脳味噌筋肉なマッチョ思想……アメリカ映画で言うところのjockやqueen bee、日本で言えば実業団アメフト選手みたいな連中を激しく嫌悪しているし、学生時代に運動部では(そもそも入るなよ、というツッコミに対しては、田舎の事情、ということについていずれ解説したいものだが、本稿では省く)ずいぶんいびられた上に、そもそも運動神経ゼロなので(バスケットボールを顔面レシーブでメガネ大破。水泳は全力でも50メートルしか泳げない。長距離走をすると死にそうになる)、今は自分では全くしない。実はイップスになってしまい、キャッチボールすらできないし。

特に集団競技がダメ。必ず足を引っ張るから。学校体育のサッカーではキーパーしかしなかった(あれは言わば、殴りかかりに行くガッツでボールに突入すれば阻止できる一人格闘家だから、俺でもそこそこできた。しかも手が使えた。足しか使えないドリブルは無理だった)。

一人でなんとかなり、体の感覚を変える古武道みたいなものは、やっとけばよかったなとは思うが、いかんせん田舎にはそういう道場はなかった。

閑話休題。なのに「俺はスポーツが好きなんだ」というと、いわゆる「同類でしょ」と思ってる文系オタクの同士たちからは、ものすごく怪訝な顔をされるし、あげくの果てにはディスられるが、世の中には「観戦道」というものもあんだよ、これが。やるのだけがスポーツじゃない。

観る側にも「権利」がある……と言うと大袈裟だけど、じゃぁ大体、二宮清純とか生島淳とか金子達仁ら、スポーツの物書きで富を得た人が「一流のスポーツマン」であるのかどうか。佐瀬稔や山際淳司ら、亡くなった先駆者たちも。

末端のスポーツジャーナリストには、体育会での競技経験者も多いが、「本」にまでできる人となると、これは圧倒的に「プレイヤーではない視点でスポーツを捉えられる人」だ。

スポーツは学問的に考えることもできる。蓮實重彦以下、何人もの学者が、論文だって出している。今、ロンドンオリンピックを観てて思うのは、欧州史や商業五輪のこと、ひいては近代経済のことだし、サッカーワールドカップなんてのはまさに世界の縮図だ。プロ野球や高校野球は日本史であり地域文化史、ついでにリーダー論、金を取るビジネススキーム。なんとでも言える。アメリカの4大スポーツなんてのは、まさにアメリカ社会そのものズバリだし。

なので、「やらない奴、むしろ観戦道に秀でた奴」こそがスポーツを論じることができるのだ。俺はそう思う。なので、俺は観戦道は今後も実践する。実際のプレイヤーたちとも、渡り合えるようになるし。

 

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