鈴木則文監督を悼む

柳下毅一郎氏、井口昇監督、朝日新聞の小原記者らがツイートしたところによれば、鈴木則文監督が亡くなられたらしい。お歳ではあったが、心底、残念だ。
 

監督はご存知、かつての東映大衆娯楽路線の職人監督の一人で、その面々の中でも僕は最も好きな監督だった。

「娯楽映画は時代の打ち上げ花火でアダ花、消費されて消えるもの」「下品こそこの世の花」を公言し、自作についても長く回顧も言及もなかった鈴木監督。しかし近年、急に自作への回顧文筆を猛烈に執筆され、その多くが単行本化された。

わけても『東映ゲリラ戦記』は、本当に稀有な邦画史であった。これなどは貴重すぎて、連載当時には某社月刊フリーマガジンを、何年も金を出して定期購読で読んでいたほどである。

そんな連載の仕方というか、媒体なんか関係ないよ、という感じも、監督らしいと言えば監督らしい……

今思えば、ご自身の去り際を見据えていたのかもしれない。だとすれば、悲しい反面、「見事な最期だった」ということにも尽きる。
 

代表作『トラック野郎』シリーズが開始40周年&ブルーレイBOX化されて再評価された年に、監督はひっそりと逝った。「合掌」と決まり文句で言うよりも、「俺らに『娯楽映画』を、本当にたくさんありがとうございました」と言いたい。
 

あらためて……なぜ自分があの「70年代東映作品」というものに強烈に惹かれるのか、と考えれば、それは鈴木監督ら「本当に頭のいい人」が、語弊はあるが「本気でバカなものを作っていた」という奇跡的な状態が続いたこと、そこに尽きる。そんな作品群に、力がない訳がない。「バカがバカを作る」のとは、何もかにもが違うのである。

それは多分に、史上最大級の天才ヤマ師・岡田茂体制下の東映にあって、奇跡的な若いインテリ監督軍団(鈴木則文、中島貞夫、石井輝男、深作欣二、野田幸男、内藤誠、佐藤純彌、伊藤俊也、等々……)が大暴れしていたからであり、これは明らかに同時期の東宝、松竹、日活よりも、人材の宝庫であった。加えて東映所属の「才人たち」は所属俳優しかり、脚本家もしかりの黄金時代で、それがあの奇跡的な作品群を生んだ。

もう相当前になってしまったが、さる仕事で地元・岩手の「ご当地映画史」を徹底的に調べあげていたことがある。そんな中、『トラック野郎』の主人公・星桃次郎が「岩手出身」という設定を突き止めた。これはシリーズ中の異色作『一番星北へ帰る』で、反映されている。

どうして「そう設定したのか」知りたくて、鈴木監督に取材を申し込んだ……のだが、監督は当時病気療養中であり、それは叶わなかった。どうやりとりしていたかの記憶は曖昧だが、最終的には、電話口に出た奥様に謝られたのが、記憶にある(つまり、監督ご本人とのやりとりは、なかった)。その仕事は監督のインタビューなしで仕上げたが、心残りな出来事であった。
 

他の尊敬すべき元・東映監督たちには……特に内藤誠監督は大学時代に指導を受けて以来、勝手に「師匠」呼ばわりしているし、そのご縁で伊藤俊也監督にお会いすることもできた。中島貞夫監督の話も、トークショーで生で聞く機会があった。

ところが、とうとう……鈴木則文監督は、一回もお会いすることはむろん、電話、手紙はおろか、生でそのお姿を見る機会もないまま、逝ってしまわれた。
 

前述の、インタビュー叶わず……の一件もそうなのだが、会いたくても会えない方には、何らかの不思議さで、本当に会えないままに終わってしまうことがある。それが人生のアヤ、みたいなものだとは思うが……。
 
救いがあるとするならば、監督は、長年封印していた多くの自身の映画史を、最後に「著作」という形で、ファンに残してくれた。それに関しては、本当に感謝の気持ちで一杯だ。僕が追っていた「一番星桃次郎が岩手出身である」設定のヒントめいた話もその中にあったことは、特筆しておく。
  

鈴木監督、ありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください。

 

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